法曹関係者ってのは

あけましておめでとうございます、ばたすけです。

昨年は何もしないままにあっと言う間に過ぎ去ってしまったように感じています。
今年こそは何か一つくらいは「成し遂げたぞ」と思う成果を残したいものです。

さてさて、年末のビートたけしの番組で「死刑制度に賛成、反対」というのをやっていました。
これを見ていて改めて思ったのですが‥‥

法曹関係者というのは、何故に原理主義的な考え方しかできないのでしょうか?

‥‥つまり、「ある」か「ない」かの二元論でしかものを考えられず、「状況によって臨機応変に対応する」ということが端から考えられないようなんですよね。

「人を殺した人は死刑にすべきだ」
という話については、普通に(この普通というのが難しいのですが)考えれば
「自己防衛の結果や、ものの弾みでそうなってしまった」場合と「明確な殺意を持って意図的に殺人をおこなった」のとでは、死刑にすべきか否かなんて判断は変わるに決まっているじゃないですか。
それが情状酌量というものでしょう。

なのに、この「決まっているじゃないですか」という考え方ができないんですよね。
「人を殺したら死刑というのであれば、どういう理由で人を殺しても死刑になってしまう」とくるのですから、びっくりです。
役人の思考停止と同じで、なんでこう「1か0かの二元論」でしか話ができないのか、どういう思考をしているのかさっぱり理解できません。

法律なので「曖昧さを排除して明確に定める必要がある」というのであれば、「この場合は死刑、この場合は減刑」と法律に事例を延々と書き続ければ良いだけでしょう。
それが面倒だから、手を抜こうとしているとしか思えないんですよね。
それに、そもそも判例なんていうのも、法律に書かれているものではなく、過去の裁判の判決ではこうだったという、それこそ状況において臨機応変に対応された結果でしかないじゃないですか。
それなのに、「判例」は不文律の経典のように振りかざし、「状況に応じて臨機応変に対応」というのは明確ではないというのは矛盾ではないでしょうか。

義母の自転車事故で何人もの弁護士と話をしましたが、どうにも話が通じなくて困りましたから、法曹界にはこういう人しかいないのかもしれませんね。
なんというか、異質な人間と話をしている感覚にとらわれるんですよね。
人間であれば普通はこう考えるだろうという感覚がまったく異なるので、話をしていてイライラするを通り越して、「こいつ頭悪いな、人の言っていることをまったく理解できないなんて」と思いましたからね。
私は一応、コンサルタントを名乗っていますので、対人折衝能力を磨かねばと思っているのですが、人と会話ができない(そもそも、他人の話を聞く気がないのでしょうね)のでは、ああいう人対人の仕事は絶対にできないと思うんですけどね。
どうして商売が成り立っているのか、不思議でなりません。
何かあった場合にはこういう人に弁護を頼まなければならないのかと思うと、ゾッとします。
どこかに、普通に話のできる弁護士さんはいないものなのでしょうか。

そういうと、海老蔵事件も、加害者側の弁護士が変わった途端に解決に向かいましたよね。
他人の話を聞いて、きちんと言わんとしていることを理解する努力をしろよと思うのですが、どうなんでしょうかねぇ。

新年早々、愚痴と文句ばっかりですみません。